こんにちは!
今回は映画「犬鳴村」の解説です。
まず「この先、日本国憲法通用せず」の解釈について。
一般的には、「この先いかなる非人道的な扱いを受けても、自己責任で」という意味で「この先、日本国憲法通用せず」という看板が立てられている、と解釈されています。
自分もこの映画を見る前はそうだと思っていました。
しかし、この映画「犬鳴村」を見ると違うのではないか、という気がしてきました。
この映画のテーマは「差別」です。
この先(=犬鳴村)とは、被差別部落です。
つまり「この先、日本国憲法通用せず」とは、「人はみな平等である」という理念を掲げた日本国憲法が通用していない、「差別がまだ横行している土地だ」ということではないか、と解釈しました。
映画の中で、村人たちにわざとこの看板を打たせていたのも、なにか示唆的ですし、後述するように、犬鳴村の村人たちはみな「イヌビト」(犬と人が交わって生まれたもの。名称はパンフレットより)であるので、「イヌビトは人じゃない。だから憲法で書かれた人権はない(ゆえに差別してもよい、というお上の判断)」という変な符号もあるんですよね
「日本国民としての人権を剥奪される」、う~ん、陰湿で嫌だわあ・・・。
さて、その「イヌビト」ですが、ここで解説(考察?)したいのは「犬と交わっている」について。
映画の中では「犬と交わっているという噂を流され・・・」というセリフがありました。
ここだけ聞くと差別を助長するための事実無根ないいがかり、という印象です。
しかし、「イヌビト」という名前や、終盤で描かれた人間が犬化していく様子をみると、犬と人が交わって生まれた子がいる、というのは確かだと思います。
そしてその子がマヤ(犬と交わった娘)の娘であり、その血筋に主人公の一家がある、というのも間違いない。
主人公が最後にイヌビト化しましたし、主人公の母親(演・高島礼子)も中盤で「イヌビト」になりますからね。
ただ問題なのは、「犬鳴村には元からそういう風習があった」ということなのか、それとも「むりやり交われさたのか」という点。
個人的な解釈としては、「犬鳴村には元からそういう風習があった」説を推したいですね。
根拠としては、むりやりだとすると、マヤがイヌビトになったのがよくわからないというのがまず一個。
初めてマヤと犬が交わって子供が生まれたんだとしたら、マヤは純粋な人間なわけで、イヌビトにはなれないはず。
(ただここは、マヤがイヌビトになったのは、犬と人の子をやどしたのだから、犬の血が出産までの過程で体に入ったからと解釈することは可能)
さらにもう一つの根拠は、ラストであの男の子が「イヌビト化」したこと。
「むりやり説」に立脚するとあの男の子が主人公の血筋がどこかで入っていないと説明がつかないわけで。
しかし、そんな描写はどこにもなかったですしねえ。
となると、「犬鳴村にはもともと犬と交わる風習があった」ということになるんじゃないですかね。
つまり、「犬鳴村の村民には多かれ少なかれ犬の血が入っており、イヌビト化する可能性がある」と。
ただまあそれは村の、例えばシャーマン的な存在を生み出すときにのみ行われた特別な行事だった、とかかもしれませんね。
イヌビト化した人々はみな霊感がすごく強かったですし。
しかし、それをまるで村人はみんなやってるんだぜ!とばかりに喧伝されたから、「噂を流された」と表現したのかな、と。
さらにもう少し解説すると、主人公はイヌビトの子孫であり、同時にそういう「噂を流した」(=差別を押し進めた)側の子孫でもあるんですよね。
差別をした側と差別を押しし進めた側のハイブリット。
このふたつの血が混じり合い、そのふたつの血を持ったものが犬鳴村に入り込むことで、祟りは加速する。
ある意味、すごくロジカルに「差別」に向き合った作品といえるかもしれません。
「犬鳴村」という都市伝説を使って、「差別」を現代によみがえらせた(んなもんよみがえらせんでいい、というかそもそもなくなっていないけれども)というかね。
今の時代にメジャー作品でよくここまで踏み込んだなあ、とそういう意味でもびっくりさせられる映画です。
さすが東映配給作品です(笑)
ちなみに、犬鳴村の家系図の中には清水崇監督作品ではおなじみの「伽椰子」の名があります・・・・。
そうあの呪怨の「伽椰子」と同名です。
が、時系列的に「犬鳴村」のカヤコが生きのびて、呪怨の「カヤコ」と化したとは考えられないので、別人でしょう。
ただの遊び心でしょうね(笑)