こんにちは!
今回は冷泉彰彦著「上から目線」の時代の感想です。
あらすじはこんな感じ↓
なぜ2000年代後半から「上から目線」という重苦しい言葉が、社会のあらゆる場面で使われるようになったのか? その背景を目線の始まり、社会の変化、日本語の構造にまで踏み込んで解明。
「コミュニケーションが困難な時代」には対立の尖鋭化が目線となって表れる。さらに、「コミュニケーションが困難な時代」の新しいコミュニケーションスタイルを提案する。「上から目線」の時代を真正面から取り上げた快著誕生!
めちゃくちゃ面白い本です!!
政治・趣味・震災、その他もろもろのことを「目線」から読み解いていく!!
これが非常に納得できるんです!
もちろん政治家や首相がダメになるのは「上から目線だから!」と言われても、「いや、それだけじゃないだろ」という気はしますが(笑)、でも要するに目線の問題とは、とどのつまり「国民とどういう視点で接しているか」、また「国民が彼をどう見ているか」ということなわけで、あながち言い過ぎでもない、気もしますね(笑)
さて、この本の中で自分が最も「核心をついてるな」と思った部分を最後にご紹介します。
熱心にプルタブ集めをする人と、そういう人に対し「じゃあ俺は車いすを買って寄付するよ」という人の対立のお話です。
「プルタブをコツコツ集める人」にとっては「ポンと寄付」する人には、「何でもお金で解決するだけの冷たい人間である」とか「趣旨に賛同するだけで努力を放棄する不真面目な人」と映るだろう。
しかも、そのことを黙っていられない人が多いのではないだろうか。
「そんなお金だけでは善意は伝わらない」とか「プロセスに込めた思いが大事」という具合に。
(中略)
そのような人から「プルタブ集め」の意義を説かれると、「ポンと寄付派」の人には「上から目線」に見えるのである。
自分が絶対に正しくて、他人にそれを従わなければ気がすまず、その上、説得に応じない人間は一種の「悪」や「格下の存在」のように見下してくる、そんな印象を受けるのだ。
しかも「プルタブ集め」の側の人は自分の姿勢に対して「もしかしたら間違っているかもしれない」とか「他の考えもあるかもしれない」というような自省の観念や相手に対する寛容度が低い。
そもそも自分の目線が「上から目線」になっていることに気付かない、典型的な「上から目線」というわけだ。
ここまでは寄付派のコツコツ派に対する感じ方ですね。
確かにコツコツ派の人ってそういうとこありますよね。
反論してもそれを絶対聞き入れないタイプと言うか。
頑固ともまた違って、狂信的というか。
こういう人が新興宗教とかにハマると、厄介なんだよなあ(笑)
対して今度はコツコツ派の寄付派に対する反論です。
相手の「カネの力を誇示」したり「カネだけ払えば義務から逃れたような態度」のことを「許せないぐらい偉そう」だと感じているのではないだろうか。
さらに言えば「ポンと寄付」の人は、どこかで「確かにカネだけではだめで、意味のある努力をしている人がいるなら尊敬をしてもいい」という「多少の自省心」を持っていることが多い。
つまり「目を吊り上げて一つの信念を固く信じて」いるわけではないのだ。
(中略)
だがそんな「ゆるい」態度がまた、「カネという権力を持っているくせに不真面目だし、要は持っている側の人間の余裕だろう」というように、これまた「上から目線」に見えてしまうのだ。
同上
自分はどちらかと言えば「寄付派」ですね。
結局のところ、手段は何であれ車いすを寄付できればいいわけじゃないですか。
そこで手段を云々するのって意味ないと思うんですよね。
「気持ちが~」と言う人もいるかもしれませんが、気持ちがこもってる車いす五台より気持ちがこもっていなくても車いす10台の方が価値があると思うタイプなので(笑)
寄付する際の気持ち云々と言うのは、寄付してもらう方にはあまり関係ないわけでね。
そんなことを考えた、とても面白い本なので、是非読んでみて下さい!!
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