こんにちは!
今回は又吉直樹著「夜を乗り越える」の感想です。
又吉さんといえば、今は芸人でありながら、同時に本格的な作家(芥川賞受賞してますからね)でもあるという、独自のポジションの方ですね。
下駄夫もいくつか感想を書かせてもらいました。↓
さて、この本は、又吉さんの自伝的エッセイという感じの本ですね。
全六章で、一・二章は又吉さんのこれまでの人生、三章は今の日本に対して思うこと、四~六章は、太宰や芥川などの作家たちの作品ガイド+思い出、といった感じですね。
全編楽しく読んだんですが、特に面白かったのが三章。
この章の中では、現代の日本人の小説や映画に対する楽しみ方に疑問を呈する部分があります。
それは共感至上主義とでもいうべきものに対してです。
まずはその部分を引用したいと思います。
本の話題になると、「私は共感できなかった」という人がけっこういます。
いや、 あなたの世界が 完成形であって、そこからはみ出したものは全部許せないという そのスタンスってなんなんだろうと思うんです。
あなたも僕も途上だし、 未完成の人間でしょう。
それをなぜ、「共感できない」というキラーワードで決めつけてしまうのか。
もうわざわざつけたしをする必要がないほど、共感至上主義に対する批判になっています。
そしてこの部分、自分はすごく「わかるなあ」と思いましたね。
別に共感するのは悪くありません。自分も又吉さんのこの部分に共感してるわけですしね。
ただ共感を唯一の価値判断基準としてしまうのは、やっぱり違うと思うんですよね。
例えば主人公が極悪人のクズ殺人鬼のように、まったく共感できない人物だとしても、読んでて面白い・楽しい作品って、いっぱいありますよね。
「この話は共感できそうになさそう、泣けなさそうだから読まない・興味ない」ってスタンスは、やっぱりもったいないと思うんです。
また、「自分に理解・共感できないものは、許せない」というのもどうかと思いますよね。
又吉さんは言葉を選んで表現してますが、これって要するに「お前は何様なの?そんなたいして人間じゃねーのに偉そうに語ってんじゃねーよ」ということですよね。
最近、何かを表現する人・クリエイトする人に対するリスペクトがないなあ、というのはすごく感じます。
娯楽の幅がすごい広がりましたし、素人でも簡単に表現者になれる(そのクオリティは置いといて笑)時代だからしょうがないことだとは思うんですけどね。
要するに自分に理解できるもの・共感できるものだけで娯楽を埋めつくそうとすれば、簡単にできてしまうわけですよね、今は。
昔は良くも悪くも色々制限されていたので、多少理解できなくても楽しもう、という姿勢があった気がするんですがね。
また、ネットメディアが発達したことにより、「一億総評論家時代」がやってきました。
これにより、表現を発信する人と受け取る人が同列、もしくは受け取る側が上位という時代が来たわけですね。
その結果として、自分の世界を広げるのではなく、自分の世界に入国可能な作品のみを受け入れ、他は無視するという、「排外主義」的な態度が生まれたと思うんです。
それこそが「共感至上主義」。
とまあ、こんなことを考えてしまいましたね。
偉そうに語ってきましたが、自分自身も陥りがちな部分であり、また、くだらない自作小説を書いてる身としては、身につまされるところもあるんですが(笑)、やはり非常に興味深かったですね。
気になった方は三章だけでも読んでみて下さいね。