こんにちは!
今回は「シン・エヴァンゲリオン 劇場版」のお話です。
この記事で言いたいことはタイトルに書いたことがすべてです。
「Q」を劇場で見た時、自分はまだ中学生か高校生でした。
当然「子供」でした。
あれから9年が経ち、自分ではまだまだ大人になり切れていないつもりですが、世間的にはもう「大人」には分類されません。
少なくとも「子供」にカテゴライズされる年ではなくなってしまいました。
ただ、やはり自分ではまだ「子供」を引きずっているつもりなんです。
でも、色々と「大人」として振る舞うことが求められることも増えています。
そのせめぎ合いの中で、「エヴァが終わる」というのは、何か非常に象徴的な意味を持つものなのです。
うまく言語化できませんが、「エヴァが終わることで、自分の中の何かが終わる」という予感を持っていた人は多かったのではないでしょうか(「さらば、全てのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーが一層その予感を強めました)。
そして、実際「シン・エヴァ」を見終わった今、「本当に大人にならなきゃなあ」という気持ちが今強くなっています。
なんなんでしょうね、人にここまで「何か」を実感させるエヴァというものは。
いってしまえばただのエンタメ。
ただの虚構。
ただのアニメ。
なのになぜ、感動以上の何かを人に訴えてくるのか。
とにかくものすごい作品であることは変わりませんね。
普通、映画とは見たところがスタートラインですよね。
映画を見て、面白いと思って、その作品について考えて、グッズを買って・・・と体験を積み重ねていく、その始まり、映画との出会いが「見ること」。
なのに、この映画は「見ることで何かが終わった」と実感させる。
多くの人が言っているように、映画を見る前にすごく緊張したんです。
普通ないでしょ?映画の前にド緊張することなんて。
これから楽しい体験をするのにね(笑)
普通ワクワクしこそすれ、緊張はしないでしょう。
でも、エヴァは緊張した。
それはエヴァが「現象」だからなのかなあ、と思います。
うまくは言えませんが、明かされる新情報に一喜一憂して、予告が公開されるたびに考察して・・・。
でも映画を見てしまえば答えが出る。
答えが出てしまう。
それは「Q」を見て放り出された、「なんじゃこりゃ!?」という長い長い空想の「終わり」なのかもしれません。
そしてそれは、色んな本や記事を読んで様々な考察をしていたあの頃の自分の「終わり」だったのかもしれません。
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ちなみに自分は「シン・エヴァ」を見ることは「童貞卒業」と似ているなあ、と思いました(笑)