こんにちは!
今回は「シン・エヴァンゲリオン 劇場版」の感想、前半戦です。
㊟この記事は「シン・エヴァンゲリオン 劇場版」のネタバレを含みます。
ご注意ください!!!
さて、映画公開前に既に発表されていた冒頭15分。
それ以降が見られる!とわくわくしていたらいきなり現れる大人になったトウジ&ケンスケ&委員長。
なんとエヴァの主要登場人物は「ニアサードインパクト」を生きのび、集落を作り、そこで生きのびていた!
そこから始まるまるで「ALWAYS 三丁目の夕日」のような昭和的世界観のほのぼの農耕牧畜&アナヤミレイ(仮称)の成長ストーリー。
ここのアヤナミレイ(仮称)の成長はいいですねえ。
母親となった委員長の優しい指導もいいですし、まるで赤子のように色んなことを吸収していくのも良い!
そんな彼女の面倒をみるのが街のおばさんたちってのもジブリっぽくて良かった。
自分的にはここの村でのシーンが一番「シン(新)・エヴァンゲリオン」だなあ、という感じがしました。
だって、まさかエヴァンゲリオンでこんな宮崎アニメみたいな風景、みたことないでしょ?(笑)
それにこの部分で伝えられるメッセージが、一番いままでのエヴァンゲリオンにはなかった視点だなあ、と思うのです。
そのメッセージを語るためにまずは前提条件の話をします。
この場面では4つのタイプの存在がいます。
一つ目は大人トウジや大人ケンスケのように、「既に大人になった存在」。
彼らはニアサーでおかしくなった世界でも希望を見つけ、日々を大切に生きている。
二つ目はアスカのように「大人になることをあきらめた存在」。
「大人」という言葉の定義は難しいですし、アスカも精神的には大人にかぎりなく近い存在ですが、エヴァの呪縛により身体は大人になることはできません。
つまりある意味では、永遠に大人になることができない人、なわけです。
そして彼女はその現実を受け入れ、村の人々とは距離を置いている。
今回、全体を通して一番報われなかったというか、一番救済されてなかったのがアスカな気がします。
シンジへの恋心を捨て、ケンスケとくっつくことが示唆されはしますが、彼女の人生にこれから幸福はあるのか?
うーん。
まあとにもかくにも、アスカは「大人になることをあきらめた人」だと思いますし、だからこそ色々これから辛いだろうなあ、と思うわけですが。
そして三番目はアヤナミレイ(仮称)。
彼女は「これから大人になる存在」。
純粋無垢で今まさに成長中の彼女は、もし生きのびることができたらきちんとした大人になっていたでしょう。
学び、体験し、純粋に成長を喜ぶ。
その彼女の愚直さが、シンジ君を動かしたのでしょう。
さて、最後がそのシンジ君。
彼は「大人になることを拒否している存在」なのです。
アヤナミレイ(仮称)によって変えられるまでの彼は、世界のすべてをシャットアウトし、自分の殻にこもっています。
それは世界とのかかわりを断つことであり、成長することを望まないということ。
だからこそ彼は何も食べないのでしょう。
そんな彼にとって辛かったこと。
それは「周りの人たちがあまりにも優しかった」こと。
わかりますね、この感覚。
失敗したとき、誰からも責められず、慰め続けられる辛さ。
本当に心からの善意による優しさの残酷。
誰かに褒めてほしいとき、優しさが欲しいとき(Qの時)には拒絶され、拒絶してほしいときに優しくされる皮肉。
このやさしさがシンジ君にとってなぜ辛いのかといえば、それは「立ち直ること」を暗に強制されているからではないのかなあ、と思います。
まるでニートのような存在となったシンジ君。
友達は大人になった。
でも自分は子供のまま。
(アヤナミレイ(仮称)の「なぜ働かないの?」はあまりにもストレートすぎて笑いましたね笑)
彼はもう、何もしたくない。
(その姿にイライラしてしまう自分は、もう大人になってしまったのか?)
でも周囲は「大人になれ」と暗に伝えてくる。
ここまでは今までの「エヴァ」でもあったことだと思います。
シンジ君が落ち込んで何もしないことも、周囲が彼に何かを強制することも。
ただ、今回が今までになかった「シン・エヴァ」なのは、「それでも立ち上がることには意味がある」と庵野総監督が本当に実感して演出しているから、だと思います。
先取りして言ってしまいますが、この映画全体を貫くテーマは「大人になるのも悪くないよ」だと思うんです。
「新世紀」のころの庵野監督のスタンスは、「アニメなんか見てないでさっさと大人になれよ!」だったと思うんです。
(もちろんアニメオタクである自分への自戒も込めてだと思いますけどね)
いわば無理してでもシンジ君を立ち上がらせようとしていた。
自分でも「果たしてシンジを立ち上がらせることに本当に意味があるのか?」と迷いながら。
いや、迷っているからこそ、答えがわからないからこそ、無理にでも立ち上がらせようという気分を持って。
でも「シン・エヴァ」では違います。
この映画を作っている庵野秀明という人間は、本気で「大人も案外悪くない」と思っていると思うんです。
「淡々とした日々を生きるのも悪くない」と思っていると思うんです。
画面から、彼が「日常」、ひいては「現実」を本心から肯定できるようになったのを感じるんです。
だからこそ「大人になって現実を生きようよ」と伝えているのだと思います。
ただ、先ほどの話でも書いたように、昔のようにそれを強制するのではない。
それこそ大人ケンスケのように「大人になりたくないならそれでもいい。でも大人になりたいなら手助けするよ」というこちらに任せてくれるスタンスだから、心地よい。
(ちなみに今回の大人トウジと大人ケンスケ、どちらもシンジによって親戚のおじさんのような存在になったなあ、と感じました。トウジが普通とか常識を悪気なく伝えてくるタイプの、うっとうしいおじさんで、ケンスケが子供の事をわかってくれる、いいおじさんって感じでしょうか笑)
そういう意味では、テーマ的な部分は「シン・エヴァンゲリオン 劇場版」のこの前半パートでほぼ終わっていると言っていいかもしれませんね。
この部分を見ていて自分がずっと感じていたメッセージは、「どんな場所だろうと、どんな状況だろうと、ちゃんと生きろ」。
皆さんはどう感じましたか?
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